■知恵(ちえ) = 分別智(ふんべつち) = わたしの知恵 差別智

    

わたしたちが普通にものを認識し理解する能力。
分別智は常に有無、善悪、是非など対立概念で分析区別して判断(分別)するので差別智といわれる。
そして、その判断の基準がわたし中心の心(我執)なので、虚妄分別(こもうふんべつ)といわれる。

 

      我執(がしゅう)

       縁起して存在している「わたし」には永久不変の実体がないのに、変わらない自我があるように思って、自分と自分に属するものに執着する

        

■智慧(ちえ) = 無分別智(むふんべつち) = 仏の智慧 無差別智 

我執の煩悩である分別心を取り去って、もののあり方を正しく見る(如実知見する)能力。
ものごとを分析区別せず平等であるから無差別智という。
「仏とは智慧を完全に得たもの」

  

フムフム、分別智と無分別智か、
なるほどなるほど、と、わかったつもりになるわたしの知恵に高光大船師の大喝。
 
「人生は人間が理解し認識してゆくところではなく、理解せしめられ、認識せしめられるところである。」
「仏教は私たちを救わんがために私たちのうぬぼれと自信を厳禁する。ゆえに、私たちに仏教 を信じるの自由は絶対にない」
 
本当のことを見ることもわかることも信じることも出来ないなんて・・どうすりゃいいの?
 
出来はしないから、「なんの造作もなく分別もなく、なんの思案もいらず、容易に目覚めさせられ ようになっている」と、認識することは出来ない、信じることも出来ないが、認識せしめられ、信じせしめられるように自然となっ ているのだとお教え下さる。
 
なんだなんだ・・なんだか分からないやと仰有るかたもいらっしゃると思うけど、同じことを、ゲロ武者という ハンドルの酒癖の悪い女の子がこんな言葉で教えてくれた。
 
「ありがたいっていう気持ちは自分で”ありがたい”っておもわなきゃ!って 思ってましたけど、そうじゃな く て、こんなふうに思わずにはいられないものなんですね。」
 
信じようと思おうと信じまいと思おうと、思いを超えて、信じずにはいられないもの・・・信じせしめられるもの、わたしの知恵で疑って疑って疑い抜 いても疑いきれないもの・・・
わたしの知恵、分別智の限界が照らしだされているということだけは疑えない。
 
分別智を照らし出す無分別智の領域には分別智は届きようがないけれど、認識し理解するという形ではなく、認識せしめられ理解せしめられるという感動がその領域にほん一瞬触れさせてくれる。
 
自分というものは見るものであり知るものだと、主体は自分なんだと思っていたのが、わたしは見る者じゃなく見られるものだった。
 
「わたしの分別智は常に無分別智に照らされている」と目覚めさせてくれるのが仏教ではないでしょうか。
 

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でもって、おまけです。
同じく高光大船先生のお言葉。
「誰様が仏教を知った顔をなさろうと、それは嘘であり、うわ言である」
げ、またまた大船先生の喝の声(^^ゞ(^^ゞ

あ、hideさんの優しげな喝の声も(^^ゞ(^^ゞ「ある確認 第2回」( 随筆かもしれない 76.平成12年8月16日 )を読み直せと。